記紀の迷い道1-5

記紀の迷い道1-5 page 18/20

電子ブックを開く

このページは 記紀の迷い道1-5 の電子ブックに掲載されている18ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
33カミ(御年神:残念ながら若年神の父ではないのだが)も合わせて、この三神はいずれも穀神である。穀神は、宮中にて、その年の農事の初めに五穀豊穣を祈る祈とし年ごいの祭まつりに欠かせない存在だったにちがいな....

33カミ(御年神:残念ながら若年神の父ではないのだが)も合わせて、この三神はいずれも穀神である。穀神は、宮中にて、その年の農事の初めに五穀豊穣を祈る祈とし年ごいの祭まつりに欠かせない存在だったにちがいない。古代の律令政治においては、春に祈年祭で豊穣を祈り、秋には新にい嘗なめ祭さいで豊作を感謝する行事は、国家の大事であった。また、いつの頃からそうなったのかは明らかではないが、庶民の日常生活の次元においても、私たちがお正月にお祀りする年神さんとは、もとはといえば、このオオトシノカミ、ミトシノカミ、ワカトシノカミのことだという。お供えの鏡餅を依り代に、年神さまの魂が降りてきて、トシタマ、お年玉となったといわれる。農耕社会の日本においては、税金も稲だったし、農耕神は大事であったにちがいない。にもかかわらず、記紀に農耕神の記述が少なく、単に系譜の列挙に終わっているのは、どうしてなのだろうか。御歳神の総本山が葛城にあったさらに不思議なことに、国の始まりを自認している大和において、農耕の守護神であるオオトシノカミ、ミトシノカミをご祭神とする神社が少ないのは、どういうわけか。と思案していたところ、そのミトシノカミの総本山とされる御歳神社を、葛城に見つけた。この神社、葛木御歳神社は、御所市東持田の集落にある。背後の奥山におくるみのように抱かれた御歳山の山裾に鎮座する式内名神大社である。名神大社とは、特に霊験の著しい神を祀る、由緒正しい神社として、国家から特別待遇を受けた神社のことだ。創祀は明らかではないが、すでに八世紀中ごろの古文書に登場し、八〇七年成立の『古語拾遺』には、「大地主神が田をつくる日に、農夫に力をつけさせようと牛の肉を食べさせた。これを怒った御歳神は、イナゴを田に放った。苗が枯れてしまったので、大地主神が白猪、白馬、白鶏を献じたところお怒りが治まった。以後、祈年祭には御歳神に白猪、白馬、白鶏をお供えするようになった」という話が出ている。九世紀中ごろには正二位、従一位という大和でも最高位の神位を授けられ、水害などがあると奉幣されている。さほどに力をもった神社であった。大和神社の「ちゃんちゃん祭り」、お旅所での会食撮影井上博道真菰(まこも)のチマキ撮影井上博道御年神が祀られている大和神社大おおやまと和神社は、古来からの由緒格式を備えた式内名神大社だ。大国魂大神、八千戈天神、御年大神の三座を祀る。この三座は、古来、天照大神とともに宮中で奉斎されていたが、崇神天皇が同殿同床ではよろしくないとして、天照大神を笠縫の邑に、大国魂大神を穴磯邑に遷座されたのが、創祀と伝わる。県内で御年神が祀られている数少ない神社のひとつだ。御年大神の例祭として、二月に行われる御おんだまつり田植祭がある。鍬入れから田植えまでの農耕過程を、地元の中学生らが演じる。また、この神社は、四月一日の神幸祭、通称「ちゃんちゃん祭り」で知られる。「お渡り」の神輿は神社から氏子地区の中山にあるお旅所まで渡御し、お旅所で祀られた後、同じ道を還ってくる。写真は、マコモを藁で縛ったチマキ。お旅所で神さまに供えられた後、各氏子地区に配られる。