記紀の迷い道1-5

記紀の迷い道1-5 page 15/20

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神武天皇畝傍山東北陵この御陵の参道築造工事も、昭和の大拡張期に実施され、御陵を見下ろす高台の位置にあった洞部落は大正6年に、移転していた。イガシと判定された。また、ここた。多出した樹根や木の実はイチと....

神武天皇畝傍山東北陵この御陵の参道築造工事も、昭和の大拡張期に実施され、御陵を見下ろす高台の位置にあった洞部落は大正6年に、移転していた。イガシと判定された。また、ここた。多出した樹根や木の実はイチとした遺構・遺物が多数見つかっその結果、縄文時代晩期を中心とになる。掘調査が並行して行われていたこでは、奉仕隊による造営工事と発下に発掘調査が実施された。現場る、若き日の末永雅雄氏の指導の橿原考古学研究所の初代所長とな土器も出てきた。さっそく、後に土中や樹根にからまって、幾多のさん掘り出された。同時に周辺の「神社の森は郷土の樹木で」とるという考え方だ。れて、広葉樹を中心とした森になけば、一〇〇年後には自然淘汰さに多様な樹種を多層に植栽してお時に適用された。これは、当初期構想は、橿原でも、大拡張事業のの時に採用された「一〇〇年の森」園学の第一歩とされるのだが、こ宮の森の植林事業が日本の近代造年(大正六)から始まった明治神を占めている。通常は、一九一五の近代造園史の中で、特異な位置神宮の森をつくる事業も、日本神宮の森も示唆している。なまつりが行われた場所の可能性かりか、土偶の多さから何か重要物は、ここが物流拠点であったばとは確かだ。そして、これら出土(カシが多く茂る地)であったこ本書紀』にあるように「橿原の地」しても、その当時、この地は、『日にあたる。神武天皇の即位は別と二八〇〇年?三〇〇〇年くらい前縄文晩期といえば、今から約語る魚の骨も出土した。いもので、海岸地域との交流を物どった土偶などは西日本では珍しから出土した妊婦や動物をかたた。先の長田さんも、「自分の背交通量の多い169号線から近トル、大半が二メートル以下だっ整理していく考えだという。された樹は、高いもので五、六メー森に入る頻度でゾーニングして、の高い樹もあったが、新たに植樹らえる森にしていくために、人がカシ、クス、シイなどの在来の背来にわたって、市民に親しんでももちろん、マツをはじめ、シラすっきりしてきた。神宮では、将七万六〇〇〇本が植樹された。は少しずつ手が入り、ずいぶんラカシなどを中心に一〇七種、約は、野放し状態だったが、近年でつかしかったのか、アラカシやシに成長した。戦後三〇年間ぐらいされたが、当時は苗木の入手がむた今、予想通りのうっそうたる森つくるには、イチイガシがよいとそれが、植栽後七〇年を経過し栽が計画された。きれいな樹相をいう。ちなんで、カシ類を中心とした植えられていたのを覚えている」という考えのもとに、橿原の地名に丈より少し大きいくらいの樹が植住吉大社の埴土神事住吉大社では、毎年、祈念祭や新嘗祭に先だって、祭事に使用する土器をつくる土を、畝傍山で採取する埴土神事が行われている。これは、神武天皇が大和平定の折に、家来をこっそり天香具山に遣わして、ここの土でつくっいつへた厳瓮で祀ると次々に勝利を収めて、大和入りを果たすことができたという伝承に基づいたものであろうとされるが、いつの間にか、土の採取地が天香具山から畝傍山に変わったらしい。畝傍山山頂付近の土の採取場所。畝傍山口神社は畝傍山山頂付近にあったが、皇紀2600年を期した境域整備の時に、山裾に移転を強いられた。土は元の神社跡地で採取される。ミニ情報奈良県ウォーキングポータルサイト「歩く・なら」では、初心者から上級者まで役立つ「ウォーキングコース」の情報が満載。記紀万葉を巡るコースも登場。くわしくは→http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/歩くなら検索42