記紀の迷い道1-5

記紀の迷い道1-5 page 14/20

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41れた。神武天皇陵・畝傍山・橿原神宮を含むこの一画は、かねてから神武天皇がらみの伝承の地ではあったが、近代になって、国威発揚と万世一系の天皇統治を表明するために、国策によって一気につくり上げられた聖域....

41れた。神武天皇陵・畝傍山・橿原神宮を含むこの一画は、かねてから神武天皇がらみの伝承の地ではあったが、近代になって、国威発揚と万世一系の天皇統治を表明するために、国策によって一気につくり上げられた聖域なのである。建国奉仕隊による拡張工事橿原神宮は、創建後も施設整備・神域拡張工事が続き、大正年間には、創建当時の約一・八倍の神域に拡張されていた。しかし、神宮と神宮の森、神宮外苑の全域がほぼ現在に近い姿を表すのは、昭和一三?一五年に行われた大拡張工事の末である。昭和一五年、一九四〇年は、初代神武天皇の即位からちょうど二六〇〇年にあたるとして、オリンピックや万博の誘致など、国家的な奉祝大イベントが企画された。橿原神宮と神武天皇陵の一体的な拡張整備も、それら記念事業のひとつ、しかもかなり重要な事業として計画されたものだ。神宮の境域の拡張、約四万坪の外苑の新設、大軌鉄道の線路を約三〇〇メートル東に移転させ、大軌と大鉄が合流する旧久米川駅を総合駅(現橿原神宮前駅)として改築するなど、総合的な空間整備工事が予定された。そして、これらの工事のうち、県担当の主に外苑工事は勤労奉仕によって行われることになった。当時の勤労奉仕隊の経験をもつ方々は、大半が今は八〇歳以上になっておられるが、そのなかのひとり、長田光男さんにお話をうかがった。「僕は、中学一年生の頃、動員で借り出されて、何回か橿原で作業しました。これは授業とみなされたんですわ。ただ言われるがままに、土をモッコにのせて運んでいただけ。稲株があったのを覚えているので、田んぼであったことは確かですわ。そこの土を耕して、モッコで運ぶ。革靴、ゲートル巻きで作業するんやけど、もうドロドロ。その当時は、何のために、どこをどうしていたのかさっぱりわからなかったけど、今から思えば、あれは大きなグラウンドをつくる作業やったんやね」動員がかかった日は、駅で集合してから、各学校の幟をたてて集団で橿原神宮に参拝。その後、作業場で建国奉仕隊の歌を歌い、四カ条の信条を斉唱して、作業に入ったという。作業する場所は「道場」と呼ばれていた。一日の実働は六時間くらいだったそうだ。この作業に借り出されたのは、昭和一三年六月の建国奉仕隊の結成から一四年一一月の解散までの間の、約一二一万人。長田さんのような中学生・女学校の生徒をはじめ、青年団・婦人会・町内会にも動員がかかった。県内はもちろん、大阪や兵庫など近畿各県からの参加もあった。大阪から夜間行軍で朝、橿原に到着、その日の作業終了後また歩いて帰るということもあったそうだ。もっと遠方からの人たちは、作業場近くにあった「八紘舎」というバラック建ての宿舎に泊まって、作業に従事したという。そうして迎えた昭和一五年。橿原神宮では初詣から紀元節、奉祝祭とどのイベントも空前の盛り上がりをみせ、この年一年だけで一〇〇〇万人近い参拝者を迎えた。しかし、そのお祭り気分と裏腹に、日中戦争は泥沼化し、物資は徐々に欠乏、戦死者も増え、日本は重苦しい空気に覆われていったのだ。橿原遺跡の発掘昭和一三年、競技場の造営工事の途中に、巨大な樹木の根がたく大正末期?昭和初期の頃の橿原神宮周辺の空撮右下に大軌鉄道と大鉄鉄道の路線が合流する地点が見える。左やや上に深田池、その右奥に橿原神宮、池の手前の比較的大きな建物は建国会館。写真中ほど右端に、畝傍運動場の片端をのぞむ。1940年の神域大拡張の前の光景(毎日新聞社)橿原遺跡から出土した樹根このようなイチイガシの巨木の樹根が、すべて幹はない状態で夥しく出土したという。新村出氏の『橿』という文章の中に、発掘調査を指揮した末永氏から直接聞いた話として、「それら多くの切株の上には、人工に踏み均らした土の層が存した」という記述がある写真提供奈良県立橿原考古学研究所