記紀の迷い道1-5

記紀の迷い道1-5 page 13/20

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ちのひとつだった。しかし、神武傍山を含む大和三山が御料地化さ陵を修復したが、神武陵もそのう生した。そして、その翌年には畝用しようとして、いくつかの天皇移築され、官幣大社橿原神宮が誕れた。当時、幕府は朝....

ちのひとつだった。しかし、神武傍山を含む大和三山が御料地化さ陵を修復したが、神武陵もそのう生した。そして、その翌年には畝用しようとして、いくつかの天皇移築され、官幣大社橿原神宮が誕れた。当時、幕府は朝廷の力を利れた京都御所の一部が社殿として周辺に、神武天皇の御陵が造営さ(明治二三)、明治天皇から下賜さ幕末の一八六三年、その畝傍山二五五〇年にあたる一八九〇年も畝傍山周辺と解釈できよう。との動きが活発になった。皇紀少し記述が違うが、いずれにして跡を確定して神宮を創建しよう「畝傍山の東南の橿原の地」とあり、ついで、明治になって、橿原宮火の白檮原宮」、『日本書紀』では天皇陵としたのだった。その場所は、『古事記』では、「畝陵を造営することで、正式に神武に宮をつくって即位したとされる。在の地を選出し、ここに新たに御イワレヒコ(神武天皇)は、橿原「ミサンザイ」と呼ばれていた現記紀によると、大和を平定したかった。そこで、候補地の中からものの、場所が特定されていなつくられた聖域陵の場合、伝承地は数カ所あった広々とした、清々しい空間を市民に提供している。計画的につくられた地ならではの、ご鎮座一二〇年を経た現在、この一画は、皇国思想の強い影響下にあった。創建から整備拡張が繰り返された最初の五〇年は、神武天皇をお祀りする橿原神宮が造営されたのは明治二三年。畝カ傍シが御茂る陵伝と承の橿地原に創神建さ宮れとた神宮の森4畝傍山と橿原神宮大正初期の境内拡張事業の際に、林苑事業を担当した折下吉延は、畝傍山を背景に神宮の本殿・拝殿が拝めるように表参道の設置に工夫をこらした。今なお、この動線設計は見40事な効果を生んでいる