記紀の迷い道1-5

記紀の迷い道1-5 page 10/20

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神坐日向神社。社殿は神社には珍しく北向きだ。日向の祀りをする神社おくついわくら三輪山山頂の奥津磐座の近くに大神神社の摂社、高宮神社がある。ひむかいのみこのかみ祭神は日向御子神、社は西向きで、ここで伊勢....

神坐日向神社。社殿は神社には珍しく北向きだ。日向の祀りをする神社おくついわくら三輪山山頂の奥津磐座の近くに大神神社の摂社、高宮神社がある。ひむかいのみこのかみ祭神は日向御子神、社は西向きで、ここで伊勢の方から出る朝日に向かって祀ったのではないかといわれる。オオモノヌシに日の神という性格もあったとすれば、まさに農耕の神といえるだろう。ちなみに方向的にはほぼ真東に伊勢の斎宮跡が位置する。一方、大神神社から山辺の道を少し南の方に行ったところ、平等寺の手前に神坐日向神社がある。祭神はクシミカタ、イヒカタスミ、タケミカツチの三柱だが、この神社がある地名を御子ノ森とよぶことから、そもそもは、山頂に祀る日向御子神をこの地に招きおろしたものではないかといわれる。鍵穴を抜けられるくらいのスレ矢の姿でこの世に現れる。命の継後述のオオタタネコである。は、蛇あるいは形象的に蛇に似た生まれた子(あるいは子孫)が、いずれにしても、オオモノヌシ神の社まで続いていた。こうして井川の上流にあったという。その糸は鍵穴を抜けて、三輪山の家は三輪山がなす谷のひとつ、狭につけた。翌朝、たぐっていくと、の陰部をつく。イスケヨリヒメの誰?と、麻糸を通した針を男の衣れ、用便中のイスケヨリヒメの母ち姫が身ごもる。この男はどこのシは、丹塗りの矢となって川を流マヨリヒメの眼前だ。毎夜通ううヒメの母を気に入ったオオモノヌイケメン姿で現れるのは、イクタリヒメの出生話では、イスケヨリこの世のものとは思えぬほどの神武天皇の皇后となるイスケヨ交わって子をもうけた。の小蛇となって出現した。人の世に出現し、見染めた美女とたい」と頼むと、翌朝櫛箱のなかン、蛇、丹塗りの矢と姿を変えてので、妻が「あなたの姿をよく見オモノヌシの神は、時にイケメなった。夫は夜しかやってこない神と人が混在していた時代、オモモソヒメはオオモノヌシの妻と崇神天皇の叔母、ヤマトトトヒオオモノヌシの正体の箸墓伝説だ。るのは、『日本書紀』にある、例ただろうことは想像に難くない。示されている。蛇と明示されていオオモノヌシを守護神として崇めンダーな身のこなしから、蛇が暗らんらんと光らせた。天皇は恐れ怒って雷のような音をたて、目をに神を見たので、神つまり蛇はきた。天皇は身を清めることなしの正体として大きな蛇を捕まえてた。スガルは三輪山に登って、神力自慢の部下、スガルに申し付け見たいので、捕まえてこい」と、雄略天皇は「三輪山の神の姿を雄略天皇の項にある話だ。を想起させるのが、『日本書紀』雷の神とも結びついている。それの這う姿が稲光を連想させるのかとから水の神ともなり、また、そそして、蛇は水陸両生であるこ属するのだ。の、不思議なものは神様の領域にとしながら人は騒ぐ。不気味なも色のわるいものはない」とブルっを見た」といっては、「あんな気だったに違いない。今でも、「蛇間にとっては摩訶不思議な存在て何よりもその奇怪な形から、人眠することによる命の再生、そしる。毒蛇の無敵の強さ、脱皮、冬文明が開けた世界各地でみられプト、インド、中国など古くから蛇信仰は日本のみならず、エジのであろう。の源泉として強烈な信仰を集めたは、形が男根に似ている蛇は、命続がなによりも大切だった時代にそこで河内にいたオオタタネコを国は平穏になるだろう」と告げた。オオタタネコに私を祀らせたら、現れて、「これは私のたたりだ。ある日、夢にオオモノヌシの神がの人がばたばたと死んでいった。き、世に疫病がはやり、たくさんとに象徴される。天皇の御代のと祀って、神の気を鎮めたというこ崇神天皇の業績は、三輪の神をも同じ称号が与えられている。ト」の称号がある。実は崇神天皇の「ハツクニシラシシスメラミコめて政を行った天皇」という意味初代天皇とされる神武には「はじ十代崇神天皇ではないだろうか。三輪と一番かかわりが深いのはヤマト政権揺籃の地しようとしたのではないか。とで、自らの支配の正統性を担保オオモノヌシの娘を后に迎えるこであり、農耕を支配する神である入ってきた神武は、地元の守護神れた意味合いからいえば、外からだからこそ、神武の神話に託さかせない神ともいえる。オオモノヌシは、農耕にとって欠あり、ゆえに雨、水とむすびつくつまるところ、蛇であり、雷で入って殿中に隠れたという。37注1:『古事記』と『日本書紀』では多少内容が異なる。『古事記』ではオオクニヌシとオオモノヌシは別の神にようにとれるが、『日本書紀』では、光り輝く神は、オオクニヌシの幸魂奇魂、つまり分身ととらえられている。